関ヶ原の戦い(関ヶ原の合戦)とは tumblr抜粋

金曜日, 6月 29, 2012

抜粋

t f B! P L

慶長3年(1598年)9月からの泗川の戦いでは、董一元率いる明・朝鮮の大軍(島津報告20万人、『征韓録』38700人、『宣祖実録』十月十二日条 中路明軍26800人及び朝鮮軍2215人の計29015人)を7,000人の寡兵で打ち破り、島津家文書では敵兵38,717人を討ち取ったとある(『征韓録』に記載があるが、誇張・誤記の可能性もある)。徳川家康もこの戦果を「前代未聞の大勝利」と評した。なお、このとき義弘は正確な時を知るために7匹の猫を戦場に連れて行ったといわれる[5]。もっとも大きいほうの数字を採用するなら、寡兵が大軍を破った例として世界史にも類例のない大勝利であり、この評判は義弘自身や島津家の軍事能力に伝説性を与え、関ヶ原の戦い、ひいては幕末にまで心理的影響を与えていくことになる。t.01

「くだらない噂を信じて謀反を疑うなど子供のようなもので、釈明の必要もない。軍備を進めているのは東北の大名に対する備えをしているだけだ。そちらは京都で茶器でも集めているんだろうが、こちらは田舎者ゆえ武具を整えるのが武士だと思っている。だいたい自分が勝手に婚姻の斡旋などをしていたくせに、人に違約違反を言うのはおかしい。前田家をお仕置きしたらしいが、大層なご威光だ。あらぬ噂を真に受けて汚名を着せようというのなら、兵を率いて出迎えてやるから、いつでもかかってこい」

これが、すでに天下を掌握しつつあった徳川家に対し、堂々と挑戦状を叩き付けた有名な 「直江状」 です!t.02

九州柳川の大名である立花宗茂は関ヶ原の戦いの時、大坂の奉行たちの要請に応じて西軍に味方するために兵を率いて大坂へ向かった。その途中、瀬戸内海を渡っている際に徳川家康から派遣された使者に出会った。その使者が持っていた家康からの手紙には、味方すれば勝利の暁には50万石を与える約束が書かれていた。

それに対し、立花宗茂は「すでに大坂に味方することに決めました以上、武士として心を変えるわけにはいけません」と答えて、きっぱりと断った。家康からの使者は手紙だけを置いて立ち去って行った。

あとになって宗茂は家臣らに向かって、「恥ずかしいことよ。50万石という文字を見た時、ふと心が迷ったわ」と言って笑い、家康からの勧誘の手紙を引き裂いて海に投げ捨てた。t.03

関ヶ原の戦いの際、徳川方に味方することを決めた信之と袂を分かった舅の昌幸が居城である上田城に向かう途中、小松姫が留守を守る沼田城に立ち寄り「孫の顔が見たい」と所望した。これに対し小松姫は戦装束で舅の前に現れて「敵味方となった以上、義父といえども城に入れるわけにはいかない」と申し出を断った。程なく昌幸が近隣の正覚寺で休息を取っているところへ小松姫は子供を連れて現れ、昌幸の願いをかなえた。これにはさすがの昌幸、信繁(幸村)父子も感心しきりであったという。t.04

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い時のこと。対上杉の関東の最前線として東軍が重視した拠点の一つに大田原城があった。
当時の大田原城主は大田原晴清(大田原資清の孫で大田原三兄弟の末弟である綱清の息子)で上杉の領内の諜報活動などを行なっていた。

もし上杉が仮に南下して来るとすれば真っ先に危険が迫るのは会津と関東の連絡路でもある大田原であろう事から徳川家からも物資や城改築の奉行が入り、急ピッチで備えが進められたが、その時に徳川軍が持ち込んだ物資に大型の大筒が10挺あった。

大筒10挺は結局の所、使われることは無く関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わったが、それでも大田原城が有事の時に会津と関東の重要な中継拠点であることに変わりはない。
大田原城から徳川軍が去る際に大筒10挺のうち3挺がこれから起こり得るかもしれない「有事」への備えとして大田原城に残された。t.05

捨て奸(すてがまり)は、戦国時代に九州の大名島津氏により用いられた戦法の一つ。関ヶ原の戦いの退却時に敵中突破の手段として島津義弘が用いたことで知られている(島津の退き口)。座禅陣とも言われる。

本隊が撤退する際に「殿(しんがり)の兵の中から小部隊をその場に留まらせ、追ってくる敵軍を死ぬまで足止めさせる。それが全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせる」という戦法。足止め隊はまさに置き捨てであり生還する可能性がほとんど無い、壮絶なトカゲの尻尾切り戦法である。

関が原の際の島津軍では、数人づつ銃を持った兵達を退路に点々と狙撃手として伏せさせておき、追ってくる敵軍の指揮官を狙撃、狙撃後は槍で敵軍に突撃した。銃の装備率が高くて射撃の腕も良く、さらに勇猛果敢な島津勢だからこそ効果的な運用が可能なこの戦法は、徳川方の追っ手を振りきり義弘を落ちのびさせることに成功した。徳川方の松平忠吉、井伊直政、本多忠勝らは島津軍を執拗に追撃したが、松平忠吉と井伊直政が重傷を負い、直政はこのとき受けた傷がもとで病死に至ったと言われる。島津側も陣を引くにあたり300程に減っていた兵数で敢えて徳川方の前衛である福島正則隊へ突撃して突破、それから捨て奸で戦場から撤退したために義弘の身代わりとなって甥の島津豊久、家老の長寿院盛淳ら多くの犠牲を出し、生きて薩摩に戻ったのは80余名であった。t.06

日本は戦国時代でも人口増えてんだもんなあ。
関ヶ原の合戦なんか、農民は弁当持って高台から見物してたっつーし。t.07

「日本人は銃に馴染みがないからFPSは流行らない。そもそも狩猟民族じゃなくて農耕民族だからシューティングって概念がない」とか真顔で言っちゃう人達。関ヶ原の合戦が世界最大規模の銃撃戦だったことも知らない人達。米でも銃禁止の州多いこと知らない人達。t.08



関ヶ原の合戦のその後、先の征伐の元凶となった上杉主従が家康へ謝罪のために上洛した。
軍神謙信の武名も名高くそして今や権勢を極める徳川様に堂々と逆らったあの上杉が久々の上洛である。
市井の人々の噂は高く、かの名物主従を一目見ようと町は見物人で溢れ上杉の大名行列の周囲は黒山の人だかりに。
そして執政直江は屋敷に残し、景勝一人登城し家康からの沙汰を待つこととなった。
しかしここでも、普段ならお目にかかれない会津の太守を一目見ようと小大名や旗本達が用もないのにわらわらガヤガヤと入れ代わり立ち代わり景勝の座す間を覗きにやってくる。

「………………」

ついに徳川方のほうがあまりの見物客の多さに気を遣い「景勝公人見知りのため」として部屋に衝立てを置き見物人達から景勝を覗き見られないようにした。

ちなみに家康から大減封の沙汰を受けた景勝、相変わらず動じた素振りも見せず至って堂々した態度で受け入れたそうである。t.09

関ヶ原の戦いの後、家康は本多正信に 「妙心寺で永壽院の弟子の僧になっている三成の子を、寺の者どもが 『重罪人の子と言えど幼い頃から出家しているのだからお許しください』 と言ってきているが、こいつをどう思う?」 と尋ねた。正信は 「すぐにもお許しになるべきだと思います。三成は徳川家に大功をなした者。彼が勝ち目のない戦を起こし、西国・中国の大名を巻き込み敗北したからこそ 日本六十余州みな徳川家に帰服致したのです。三成が思い立ってくれなければ日本全土が従うことはありませんでした。これは徳川家に大功を成したとは言えませんか?」 と答え、家康もそれに納得する。 その僧は赦されて岡部美濃守宣勝と懇ろになり 和泉の岸和田で余生を送ったという。 「ある意味三成のおかげで日本を纏められたんだから その立役者の子は助けるべき」 そんな佐渡さんのいい話。t.10

関ヶ原の戦い以降、江戸時代を通じて外様大名127家、親藩・譜代大名121家の計248家が改易されている。大坂の役で豊臣家が滅ぼされて以後、武力抵抗をした大名は皆無であり、全て無抵抗で城と領地を幕府へ明渡している。t.11

「現在も、徳川家、前田家、島津家、上杉家など旧大名家の当主同士の集まりがあります。徳川様はなぜか隣に席を作ってくださいます。
将軍家の隣に伊達家の席があるのは、徳川様いわく「関ヶ原の戦いで伊達家は多いに貢献してくれた」からだそうで、特別なのだそうです。

隣のテーブルには水戸徳川家、そして関ヶ原の戦で東北の地で伊達家と戦った上杉様とは微妙な距離関係です。それぞれの家、当主にとって、先祖の出来事は簡単には忘れられません」t.12


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