才能の発見方法
成功実学でもお話していることですが、自分の好きなことをしているときは「楽しくて、努力や苦労なんて言葉は不要」これこそが才能発見の糸口です。人並み外れた成果を残した人達は間違いなく、「自分の好きなこと」をしています。いや、し続けています!!たまたまその才能に世間が「好ましい評価」を付与したに過ぎません。ゴッホのように亡くなってから「評価」された芸術家もいます。彼は絵を描く才能を自ら発見し、売り込もうとしたわけではなく、ただ絵を描く事が好きだったのでしょう、そして、飽きることなく描き続けていたのだと思います。
「私は何をしているときストレスなく継続できるか?」を自らに問いかけてください。多分、寝食を忘れて「夢中になれる具体的な何か」があるはずです。ここで、単純に「その何かをすることが才能」なのかと云えば少し違います。
才能の抽象化
絵を描くことが「上手いとか下手」とかいうのは「技法」です。そうではなく「絵を描くことの本質は何か」を考えましょう!たとえば「創作活動」とか「色彩の認識」とか「形状の認識」とか。。。絵を描く行為は「表層に現れた現象」でしかなく、その背後に配置された「本質」が存在します。その本質に才能があります。人とおしゃべりすることが好きな人は、おしゃべりする才能ではなく、「違いを発見する」才能、あるいは「共感する」才能があるかも知れません。
マンガを読む、ゲームをする、歌を唄う、散歩をする、ゴルフをする、機械ものを分解する、手芸をする、お料理をする、何でもいいです。「自分が飽きることなく続けられる何か」を探し、その背後にある(であろう)本質を見極め、抽象化してみましょう!t.01
つまり、エンジニアが幾ら優秀で努力家で人格者であろうと、会社の商流・そのとき持ってる案件・営業の能力で年収はほぼ決まる。とそういうわけです。そして出来る人には仕事が集中するので、パンクしてしまうのです。頑張っても、頑張るほど仕事が集中するのに収入は殆ど変わらない。それでは流出してしまうのも仕方ありません。t.02
頑張ることの意義を、疑う人は少ない。この国では、自分の属する組織や場のために頑張ることは美しいと思われている。そうでなければ、なぜあんなに高校野 球が好きなのか。若者は素晴らしい、なぜならつねに一生懸命だから、というわけだ。
では、会社で頑張るとはどういうことか。お金儲けという目標のために、組織が全力を尽くすこと。それはすなわち、各人がおのおのの持ち場で最大限の努力を はらうことだ。そのために、各部門で目標となるモノサシが与えられている。利益とはすなわち売上マイナス原価である。したがって、営業は売上の増大をはか り、工場は製造原価を低減しろ、と求められる。物流部門は物流コストを低減しろ。調達部門は安価なサプライヤーから買え。あるいは安価な外注先に製造委託 しろ。設計部門は新製品投入までの時間を極力短くしろ。IT部門は運用保守コストを削減しろ・・・。
各部門に利益最大化のための尺度が与えられ、期間ごとの成果がもとめられる水準に達したかどうかで、人事評価や部門評価が決められる。こうして、すべての 部門が『頑張る』ことを求められる。
その結果、何が起こったか。
営業部門はシェア拡大のために、低価格競争に走った。工場は生産効率を求めて、設備能力の許す限り大ロットで生産した。人員削減のためにロボットや高価な 自動化設備を導入し、機械の稼働率を最大限に上げるようスケジューリングした。調達部門は下請けを限界までたたいてJIT納品を強制し、それでも足りない と、安価なメーカーを求めて中国から海外調達に乗り出した。企画開発部はますます数多くの新製品を作りだし、手間のかかる詳細設計は廉価な協力会社やサプ ライヤーなど外部に投げるようになった。
物流部門は子会社化され、単価を切り下げられ、“物流で儲けてはいけない”とされた。それでも足りなければ、3PLに委託され、人員ごと移管された。情報 システム部門もよく似た運命をたどった。ERPパッケージを入れ、アウトソースして間接人員削減をせまられた。人事部は成果主義を導入して、高齢社員から 順に削減していった。
そのおかげで、企業の収益は上がり、日本経済は復活したか? --それは我々の知るとおりだ。
利益率を無視した拡販で、企業は体力を消耗した。工場には製品・半製品がうずたかく積み上がり、それなのに物流部門は欠品で悲鳴を上げている。作りやすい ものばかりを大ロットで作った結果だ。需給が合わないので、生産計画担当部門は寝る間もなくなり、現場は度重なる指示変更や設計変更にうんざりしている。 しかも中国ベンダーからの部品は通関でトラブって1ヶ月も来ない。
設計部門も丸投げのために技術が空洞化し始め、製造現場が作りにくい特注部品は増えるばかり。ベテランの熟練工を首にしたおかげで、品質レベルは下がる一 方だ。労災も頻発するようになった。
ITで効率化どころか、摩訶不思議な社内ルールや例外処理で、せっかくのパッケージがカスタマイズの山となり、予算超過でプロジェクトが立ち往生してい る。
そして全員が全員、頑張ることに疲弊している。どこまで頑張っても、利益にも給料にもロクに反映されてこないからだ。設計も製造も間接部門も、いつ人員対 象の削減になるかとおびえている。効率を上げれば人が余って首を切られる。しかし効率が悪ければ、部門全体が外注されてしまう。自分の足元を掘り崩す仕事 に、熱中するのはむずかしい。
どうしてこうなってしまったのか。それは、企業全体の目標を、部分目標に分解可能だと、皆が信じていたからだ。そして皆が、自分自身にあてられた尺度で頑 張ることの意義を、誰も疑わなかったからだ。
利益=売上-原価 だとしても、それを売上目標と原価目標に分解したら、なぜ売上と原価を、それぞれ独立にマネージ可能だと思うのか。新製品で売上を伸ば せば原価率は上がるし、少品種大量生産で製造原価を落とせば、多様な顧客ニーズを満たす売上は達成できまい。運動会の綱引きならば、一人でも力を抜けば全 体の力が落ちる。しかし、販売と製造、設計と物流は足し算では動いていない。全体のダイナミクスは連動しており、頑張るべき部分と、手を抜いて様子だけ見 ていればいい部分は、そのときどきで動的に移っていく。それを決めるのが戦略なのだ。なぜなら、(かつて引いた知人の言葉を借りれば)『戦略とは無駄な戦 いを略くこと』だからだ。
各人がつねに持ち場で頑張れば良い結果を生む、という考え方は迷信だ。それは戦略の不在を意味している。頑張りという主観だけで人間を評価するのは間違い だ。それは各人から戦局を判断する力を奪っていく。部門を固定した尺度で動かすのは誤りだ。選ぶべき尺度を戦略によって変えなければ、組織のエネルギーは 部門間のコンフリクトに消えてしまうだろう。t.03
偉人伝に描かれる偉人の幼少時代は、ほぼ例外なく困り者ということになっている。
エジソンは質問魔のサボり屋だったし、シュバイツァーは傲慢なガキ大将だった。ピカソはどうにもならない劣等生だった。ベートーベンはおこりんぼの気難し屋だった。ということはつまり、子供時代は、おかしな人間であればあるほど、後々の逆転の見込みは大きいてなことになる。
この種の教訓の引き出し方を「ひねくれている」とか「ありえない」と思う人もあるだろうが、そんなことはない。ある程度以上の量の偉人伝を読んだ子供は、皆、同じ結論にたどりつく。そういうものなのである。実際に、私は大人になってから、同じ偉人伝マニアであった仲間から、ほぼ同じ証言を得ている。
「いや、エジソンにはだまされた」「ライト兄弟のデタラメぶりにはグッときた」そうなのである、偉人伝がもたらす教訓は、表面的には「努力せよ」「あきらめるな」「他人のために生きろ」「謙虚な心を忘れるな」であるように見える。
が、実態は違う。あの種の読み物を山ほど読みこなした子供が偉人伝の行間から読み取るエッセンスは、「簡単に人の言いなりになるな」「意地を張り通せ」「他人の評価なんか気にするな」ぐらいな、一種の開き直りの境地なのである。t.04
報われたものは努力と呼び
報われないものは徒労と呼ぶ
だから努力は必ず報われるt.05
しかしながら、この「努力を評価する」という仕組みは、時として学生を追い詰めてしまうこともある。なぜならば、一般的に努力とは他人の目にどう見えるかであって、自分がどれだけがんばっているかではないからだ。t.06
努力そのものが評価されるのは 学生の特権なので皆さんとにかく努力してください
そうすれば結果が付いてこなくても私は評価はします。
10段階評価の5ぐらいまではあげます
ただしこれは学生でいる間だけなんだと念頭に置いてください
社会に出たらこうは行きません。過程ではなく結果が重視されますt.07
まぁなんだ
「頑張ってる俺は評価されるべき」と思い込んでる成功者が日本には多すぎるんだよ
あのジダンですら
ジダン
「僕の人生は幸運で彩られていた
才能に恵まれないものがいる
才能があっても見出されないものが居る
世の中には若くして怪我でキャリアを絶たれるものが居る
僕はプロフットボーラーになることが出来たし、この歳までやってこれた
全ては僕の努力の結果ではなく、周りの人が支えてくれたおかげだ」
記者
「努力が全てでは無いと?」
ジダン
「だって、フットボーラーを目指す人は、誰だって努力しているだろう?」 t.08
t.01-05
t.06-09
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