入門書、専門書を揃え何度か挑戦したのだが、どうもダメである。いずれもモダンな言葉で書かれているケースが多いのだが、これがネックである。クラシカルな方法でないとやれないことが沢山残っているようにも思える。
それと昔の論文は、細かく命題を分けず、著者の意の向くままだらだら書きの場合が多いから、オリジナルな論文をちゃんと読むと、その人の息づかいまでが聞こえるという。
ただ良い教科書は引用しやすいように結果を整理している。教科書で大体のことを知ってから読むと能率的である。
私はノートに1ページ当たり1,2個の絵を描きますが、今のPC手間がかかりすぎます。詩や小説などを書くのは便利かもしれませんが、そしてそれは部分部分のつぎはぎで出来るので便利かもしれませんが、研究ノートの場合はつぎはぎはしてはダメで、まとめるときは一から丁寧に考え直すこと、それを繰り返すことによって論文に仕上げていくべきであって、研究の断片をつぎはぎして論文にするというのは、もう慣れてしまった人は別として、勧められません。私は論文の下書きまでは手書きです。
研究ノート→レポート用紙にまとめる→ゼミで発表→学会で発表→論文、の各プロセスを1回1回新たな気持ちで考え直すことは(私は書くことが考えることになっているので)、わずかな手間省きに較べはるかに重要で、楽しくもあるのです。
問題を解く糸口を見つけることなどは、特に犬棒式にならざるを得ない。
論理的にやれるものなら既に人がやっている。
こういう理論があるなら当然こういう理論があってもよいはずだ、とか考えることができる。予測していないようなもの、普段犬棒式に歩き回って生きた情報を増やしているのが役に立つ。自分中心ではダメなのである。
やり方が間違っていなければ必ず結果がいつか出る。
何年かして結果が出なければ、そのあたりのことが自分に今は難しすぎるか、やり方が間違っているのいずれかである。
宝物はかっこのいい理論などには普通なく、糸くずのようなフツーの人は諦めたり、見逃すものの中にあることが多い。
湯川秀樹の言葉に「未知の世界を探求する人々は地図を持たない旅人である」というのがある。
ただ未知の世界と言っても、先人の残していった古地図があったり、獣道みたいになっている先人のつくった道があったりすることもあるが。
ただ未知の世界と言っても、先人の残していった古地図があったり、獣道みたいになっている先人のつくった道があったりすることもあるが。
私も40を過ぎた頃から自由にものが考えられるようになった。
それによって何が本質的で、何がどうでもよいことかの判断が瞬時につくようになり、つまらんことには見向きもしなくなった。
それによって何が本質的で、何がどうでもよいことかの判断が瞬時につくようになり、つまらんことには見向きもしなくなった。
現在のパラダイムを打ち破る種は、案外基本的な点の思い込みを再検討することにあります。そういうのを見つけるのは秀才君でないことは確かです。
毎日同じことを書くことになってもかまいません。10回、20回と同じことを考え考えしながら書いているうちに、ふと何か見落としていることを見つけたり、新しい連想がわいてきたり…そうなればしめたものです。
行き詰まった時は先ず一番最初から丁寧に考え直すことを一度はやってみることです。方向転換はそれからでも遅くありません。
研究ができるようになると強い喜びがあり、人生が豊かになります。
http://nagaohayao.tumblr.com/post/5335164626
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