男性にあっては、その理性と精神力とが、二十八歳以前に成熟の域にいたることは、ほとんど見られないのに、女性は早くも十八歳で成熟してしまう。
女性は精神的近視である。
すなわち、その直覚的悟性は近いところを鋭く見るけれども、その視野は狭く、そのなかには遠距離のものがはいってこない。
女性は男性に比べて、より多く現在に没頭するから、しのび得るかぎり、より楽しく現在を味わう、これが女性に特有の快活さを持たせるもととなる
婦人の物ごとを把握する方法が、男子のそれとは全く異なっており、ことに、女たちは目標への最も短い経路を好み、一般に、最も身近にあるものを眼中に置くので、男子が、とかく、そのようなものを、かえって、それが自分の鼻先にあるために見のがしてしまうといったような場合に、やはり、手近で簡単な見方を得るためには、婦人と相談することが役に立つからである。
そのうえ、女たちは、断然、男子よりも冷静であり、従って、物ごとについても、現実に存在する以上に、あまり多くを見ないという長所を有つ。
ところが、男たちは、みずから激情に駆られると、ややもすれば、存在するものを拡大して見たり、さらに、想像的なものをつけ加えたりしがちになるのだ。
不幸な人を見た場合、女性は、男性に比べて、より多くの関心をもち、より多くの同情と人間愛とを示すけれども、反対に、正義とか忠実とか確守とかいう点では、男性に劣るということも、同一の源泉から演繹すべき事柄である。
現実のもの、直観的なもの、直接に実在するものなどは、女たちのうえに一種の強い力を押し及ぼすけれども、その反対の、抽象的な思想とか、一定の格率とか、堅く決心したこととか、ないしは、一般に過去や未来、不在の人や遠方の人に対する顧慮などのはたらきは、おおむね、微々たるものにすぎないからである。
女性の狡猾さは、本能的といってもよく、その嘘つきの傾向を全然なくしてしまうことは出来ない。
けだし、自然は、獅子には爪と歯とを、象には長い牙を、猪には短い牙を、牛には角を、烏賊には水を濁らす墨汁を与えたように、女性に対しては、自己防衛のために、「いつわる力」を与えて、武装させたのだ。
つまり、自然は、男性に体力ならびに理性として与えた力のすべてに匹敵するものを、女性には、このような天賦の形で、授けたものである。
それゆえ、女性は生まれつきいつわるものであり、従って、賢女だろうが毒婦であろうが、いつわることにかけては、同じように巧みなのだ。
思うに、女性が、あらゆる機会をとらえて、これを行使するのは、上記の動物が攻撃を受けた場合にすぐさま自分の武器を使用するのと同様に、ごく自然なことであり、しかも、そのとき、女性は、或る程度まで、自分の権利を行使するのだと感じているに違いない。
というわけで、しんそこから誠実な、いつわりなき女は、おそらく、あり得まい、まさしく、それゆえに、女性は、他人のいつわりをやすやすと洞察する。
男性と男性の間には、おのずから、単に無関心があるに過ぎないけれども、女性と女性との間には、早くも生まれながらにして、敵意が存在する。
だから、いわする商売敵の憎しみは、男たちでは、それぞれ彼らが属する同業組合にもとづくものに限られているが、女たちにあっては、その憎しみが全女性を包括している。
これは、女性全体が、ただ一つの職業しか有っていないのによるのだ。
女たちは、路で行きあった場合ですら、互いを分け隔てすることを、あたかも、グェルフ党とギベリン党との間柄にもひとしい。
なお、初対面の際、二人の女性は互いに、同じ場合に二人の男性が示すよりも、明らかに、より多くのわざとらしさや、いつわりの虚飾を表す。
だから、二人の女性の間にかわされるお世辞は、男性の間のそれよりも、はるかに滑稽なものとなる。
女たちの虚栄心は、たとえ、それが男たちの虚栄心より大きくない場合でも、全く物質的な事物、すなわち、自分を美しく飾ることとか、ついでは、浮華・贅沢、壮麗といった面に熱中する悪癖があり、従って、女たちの最も好むところは、まさしく、社交ということである。
この虚栄心は、特に、その理性の貧弱なためでもあるが、女たちを浪費に傾かせる。
だから、古代人は、早くも「女たちは、たいてい、生まれながらにして、むだづかいをする」と言っている。(エス・ブルンク著『ギリシア詩の格言集』第百十五節)。
これに反して、男たちの虚栄心は、おおむね、非物質的な長所ーたとえば、悟性とか教育とか勇気などのようなことーに向けられる。
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自分は全く公平に書いたつもりなのだが、考えてみれば、公平ということくらい、女から嫌われるものはなかったんだっけ、女は、自分に有利な不公平しか好まない、とくに、あの「淑女」という種族は、永久に甘やかされていたいらしく、いちど、誰かが「美しい性」なんかと下手なお世辞を使ったものだから、すっかり思い上がり増長してしまって、それからというものは、単に、そんなお世辞を繰り返しただけではもの足りず、さらにちやほやとさまざまなお世辞をかせねなければならなくなってしまった(しかも、お世辞というやつは、いくら美辞麗句を並び立てても、満足させるわけにはいかないものだし、相手が女であってみれば、それは、なおさらのことなんだ)。
これは、すばらしいエスセエの傑作ともいうべく、まったく過不足なく「女」を観ている。
男はみな、この書によって、みずからの偶像「女」に対する認識を改めるべきである。
とくに、青年は。
そのうえで、愛するなら、愛したらよい(その結果、恋ができなくなったというなら、そんな恋なぞ、およそ、なにものでもなかったのであろう)。
その結果、女の美点には正当な讃美をもって、女の欠点には正当な批判をもって、そして万事あだな望みは捨てて女を愛することができ、女にのぞむことができたら、それこそ公平な態度というべきである。
彼には、女たちを正しく位置づけたという功績こそあれ、けっして、無益に人を傷つけたことはないのである。
アルファルファモザイクの【閲覧注意】ショーペンハウエル 「女について」について
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